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ダムの知識
その3

戦後、関東の電源地帯に!

過酷な戦争に幕を閉じた日本は戦後復興をとげ、産業、経済の発展が目まぐるしく成長していきます。そんな中、電力供給体制も転換期を迎えます。

復興の足がかりに大規模な電源開発計画

奥只見ダムから見た只見川

戦後になると昭和25年に施行された国土総合開発法に基づき、全国22地域で特定地域総合開発計画が策定されます。河川の多目的総合利用による国土の保全、資源開発、工業立地条件の整備を目標に、大戦後の食糧、電力等の緊急必要物資を確保するためでした。

魚沼を含む地域では只見川から阿賀野川にかけて多くのダムや水力発電所を建設する「只見特定地域総合開発計画」が推進されました。只見川は水量が豊富で落差も大きいため、水力発電に適した地とされていましたが、地形の険しさなどから河川の一部が利用されるにとどまっていました。しかし、戦後をむかえ、国土復興を目的に計画が立てられ、大規模な水力開発が行われました。

戦争により不足した食糧、資源、工業立地条件の整備などを目標に、大規模な水力・河川の開発が進められていきました。尾瀬を水源とし、新潟県と福島県の県境を流れる只見川は特に適した地と目され、奥只見ダムなどの開発が始まります。

奥只見ダムの水を新潟県側に流す計画があった

奥只見ダム

「只見特定地域総合開発計画」では、事業者や地方自治体などにより様々な計画案が作られましたが、最も有名なのは福島県と東北電力の「只見川本流案」と新潟県の「只見川分流案」の対立です。「只見川本流案」は、只見川本流に階段状にダムと水力発電所を建設し、上流の発電所で使った水を下流の発電所で再利用し、河川の水と落差を有効利用しようというものです。

これに対して「只見川分流案」は、只見川に建設した大規模なダムからトンネルで水を信濃川水系に分水し、水を発電に利用するとともに越後平野のかんがい用水としても利用し、食糧増産に役立てようというものでした。最終的には本流案に近い形での開発が決定し、奥只見ダムや田子倉ダム等が建設されます。

奥只見ダムは堤高157mの重力式コンクリートダムで、電源開発株式会社が管理する大規模な発電専用ダムです。昭和29年に着工され、資材運搬用の道路として現在の奥只見シルバーラインを建設、難工事の末、ダムは昭和35年に完成しました。

只見川の水をめぐっては様々な議論がなされたようです。最終的には「只見川本流案」に近い形で落ちつきましたが、「只見川分流案」が採用されていたら、その後の経過も変わっていたかもしれませんね…

黒又川に作られた兄弟ダム(巨大ダム)

黒又川第一ダム

奥只見ダムと同じ時期に建設されたのが黒又川第一ダムと黒又川第二ダムです。先ほどの福島県案と新潟県案が対立した際、政府は妥協点を探るため「黒又川分水案」を提示します。

この案は奥只見ダムの水をトンネルで黒又川に分水し、黒又川に建設したダムに貯め発電用水とかんがい用水を確保するというものでした。

これが採用され、黒又川第一ダムは昭和29年に着工、昭和33年に完成。黒又川第二ダムは昭和36年に着工、昭和39年に完成しています。後にかんがい用水供給の目途が立ったことから、只見川から黒又川への分水計画は廃止されました。

兄弟と巨大をかけたことに気づきましたか?黒又川第一ダムと黒又川第二ダムの兄弟ダムです。黒又川第二ダムはアーチ式を採用し、とても美しいフォルムですよ。黒又川第二ダムへの道は現在通行止めです。見に行けないのが残念です。

転換期をむかえた日本の電力供給体制

黒部ダム(富山県)

只見川や黒又川に建設されたダムの水で発電した電気は、大部分が関東などへ送られています。大正期から昭和前期にかけて長岡を中心とする中越地区の電源地帯であった魚沼は、戦後、東京を中心とする関東の電源地帯へと地域の位置づけが変化していくことがダムからわかります。

奥只見ダムなどが建設された時期には、黒部ダム(富山県)や田子倉ダム(福島県)、御母衣ダム(岐阜県)など大規模な水力発電用のダムが各地に建設されます。これは日本が水力発電を主体としてきた結果であり、奥只見ダムや黒又川のダムは戦後の電力需要を支えると共に、明治末期以来の電力供給体制の基本であった水主火従路線の最終段階のダムとして位置づけられます。

その一方で、日本の電力供給体制は昭和30年代に「水主火従」から、「火主水従」へと移行しています。総発電電力量における水力発電の比率は、昭和30年度は78.7%でしたが、昭和37年度になると46.1%となり、50%を下回り火力発電の割合が水力を上回ります。理由としては火力発電技術の進歩、火力発電の燃料が石炭から石油に転換したこと等があげられます。国産エネルギー路線から、エネルギー源を海外に依存する時代になっていったと言えます。

戦後しばらくは水力を主体とした電源開発計画が進められていましたが、昭和30年代に入ると火力発電の開発に重点が置かれるようになります。工期や経費を考えると火力発電にも大きなメリットがあります。でも、ダムを造る目的は発電だけなのでしょうか?次の章では「多目的ダム」についてご紹介します。

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多目的ダムの建設はじまる!

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